NPO法人 大阪狭山ファミリークラブ
歴史講座第14回「西高野街道を歩く〜その1」
河内長野駅から滝谷駅まで
日時   : 平成19年11月17日(土)午後1時〜午後4時半解散
参加人数: 26名
講師   : 松本 弘氏 (大阪府立狭山高等学校教諭、河内長野市郷土研究会副会長)
内容   : 昨年開催の歴史講座第9回「高野街道を歩く〜その1」では河内長野駅から三日市町駅まで、今年6月

        の第10回「高野街道を歩く〜その2」では千早口駅から天見駅まで、9月の第13回「高野街道を歩く〜

        その3」では千早口駅から三日市町駅までを歩きました。今回は河内長野駅から滝谷駅まで歩きました。

        @極楽寺

        融通念仏宗の河内六別時の一つで錦部別時(道場のこと)である。縁起によると聖徳太子の創建とされ

        その後荒廃していたが、当山中興の祖法明上人が再興し阿弥陀仏を本尊とした。本堂(文政元年建立)

        庫裏とも堂々とした建物で他に鐘楼、薬医門、観音堂がある。三十三度行者の満願供養碑も数基ある。

        A古野行者堂

        古野町には大峯信仰の行者堂と大峯登山の石碑があり、また石段右下に「是より高野山女人堂九里」と

        しるされた道標も建っている。行者堂に至る手前、向野から本多町に通じる広い道路沿いに膳所藩代官

        所があったとされ、「市村新田」の開発や「寺ヶ池」の築造を行った中村家が郷代官を務めた。

        B原の十三仏と原の辻

        巡礼街道(西国4番槙尾山から東高野街道沿いの5番葛井寺を結ぶ)と西高野街道が交差する地点が

        「原の辻」で自然石の道標が2基ある。近くの阿弥陀寺跡には十三仏板碑が二つありその内の一つが

        三十三度行者の満願供養の石造板碑である。この供養碑は現在までに確認された最も古い碑(寛永

        11(1634)年)である。いずれも舟形石碑の中央に十三仏像が「四段三列一尊」の形に刻まれている。

        C晴明塚

        「原の辻」から堺方面への坂(石坂という)を登りつめた所に「晴明塚」と彫られた石碑がある。伝説によ

        ると陰陽師・天文博士である安倍晴明が、天皇のお供をして高野詣での途中、天気占いをして乞食に

        負けたため自身の浅学を恥じてここに陰陽推算の書を埋めた場所とされる。

        D明忍寺

        真言宗延命寺の末寺で、創建は応永年間(1394-1428)頃と伝えられ古くは妙忍寺と書いたらしい。本尊

        は阿弥陀如来立像で後背も制作当時のものがそのまま伝えられている。裏の墓地に赤穂浪士赤垣源藏

        の叔父の墓(赤埴所左衛門勝政と彫られている)がある。また天誅組に協力した伊勢神戸藩長野代官

        吉川治太夫の墓がある。

        E盛松寺

        真言宗高野派の寺で、昔から「与津の大師さん」として親しまれている。本尊は弘法大師で、高野山から

        伝えられたという弘法大師御影が秘仏として安置されている。弘法大師が槙尾山向かう途中、土地の人

        々から疫病の流行を聞き、平癒祈願をされ樟を一本植えられた。木は四幹に分かれる大木となり、弘法

        大師ゆかりの霊木として崇められ四つ樟と呼ばれた。これが与津とも四通とも言われる由来である。12

        月21日「納め大師」の日には大師から伝えられたという無病息災を祈願された柚子みそが配られる。

        F松林寺

        聖天さんで有名な生駒山宝山寺を本山とする真言律宗の寺。宝山寺は江戸中期に宝山湛海が中興し現

        在の基礎を築いた。同時代に延命寺の淨厳がいて両者は良きライバルであった。松林寺がまだ庵のころ

        淨厳自ら描いた曼荼羅図一対を庵主慧忍に与えています。

        G西国三十三度供養碑(宝筐印塔)

        松ヶ丘中町・西高野街道沿いにあり安永8(1779)年造と彫られている。

        H滝谷駅

        高野鉄道が狭山から長野まで開通した時、滝谷不動明王寺への参詣駅として開業した。その後近鉄長野線

        の滝谷不動駅が開設されてから当駅を利用する参詣客の足が遠のいた。

極楽寺本堂

古野行者堂

原の十三仏

原の辻(右さかい大坂左まきのミち)

晴明塚

明忍寺

盛松寺本堂と樟の大木

松林寺山門
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