| NPO法人 大阪狭山ファミリークラブ | |||
| 南河内の教育と市郡制法について」 |
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| 日時 : 平成18年2月18日(土)、午後1時〜4時 | |||
| 参加人数: 16名 | |||
| 講師 : 松本 弘 (大阪府立狭山高等学校教諭、河内長野市郷土研究会副会長) | |||
| 内容 : 江戸後期の教育機関としては、藩校、寺子屋、郷学校、私塾があった。 @ 藩校 現在の大阪府地域で武家子弟のための藩校を設けていたのは、高槻藩(青莪堂)、麻田藩(直方堂)、 丹南藩(丹南学校)、狭山藩(簡修館)、伯方藩(伯方仮学校)、岸和田藩(講修館)の6藩であった。 簡修館は狭山藩上屋敷内に設けられ、和学・漢学・兵学の三科を教授した。生徒は8歳以上17歳まで とされ凡そ60名が通学した。学費はすべて藩費で賄われた。 A 郷学 藩校とならんで、庶民の教育機関として郷学・私塾・寺子屋がある。大阪は算盤をはじくかたわら学問に 励む町人学者を多数輩出したところで、町人が出資して建てた学舎にこれら学者を招聘した。 主なものは、含翠堂(東住吉区平野京町)、堺郷学所、立教館(柏原市国分)などで、立教館は大阪府 指定文化史蹟として玉手山学園キャンパスに現存する。 明治初期の教育機関 B 堺県郷学校 明治の廃藩置県により南河内の行政単位は堺県となる。堺県では、明治維新で中絶していた郷学所を 県知事小河一敏が再興させたものの、明治3年知事罷免とともに廃絶となった。 ついで堺県知事となった税所篤は、明治4年に郷学校を設け、経学・筆道・数学の三師を置いて士民童 幼に限らず有志の者すべてを入学せしめ、別に寄宿寮を設けて遠方からの入学者の便をも計った。 翌5年1月堺郷学校は堺県学に改組され、地理・歴史・終身・算術などの普通学科を教えるかたわら英 語学を授けていた。堺県では同年2月堺県管内を分区して、河内の国を29区、和泉の国を25区に分区 し、各1区1郷学校設立するよう布告を出した。この布告に基づき設立された郷学校の一つである古野 郷学校は、資料「郷学校開校御届書控」(吉年家文書)によると、本校1ヶ所(教師2人、生徒数110人) 出張所9ケ所(教師9人、生徒数500人)の規模で、運営予算は年間580両(現在価値約5800万円)と 記されている。 郷学校では、習字、句読、算術等の科目について初・中・上級毎にその教授内容を細かく定めた。当時 使用された習字手習い帖、読本(窮理図解、地学事始、天変地異、博物新編)等が展覧された。さらに 堺県郷学校で作られた教科書(人の基、小学習字本、学問の心得、市郡制法等)も展覧された。 C 小学 明治6年4月、従来の郷学校を改めて小学となし、和泉の国45校、河内の国73校の小学校を開き、和 泉・河内の両国内でそれぞれ第1番小学より番号を以って称した。 D 市郡制法 明治維新後、政府は人心の安定と法秩序の確立、道徳教育に力を入れたが、大坂・堺・京都・滋賀・徳 島の各府県では市中制法、市郡制法、郡中制法等の教科書を府県独自で作り子弟の教育に当たった。 京都府では明治2年3月に、大阪府では明治5年3月に、堺県では明治5年4月にこのような教科書を出 している。他府県の教科書は、江戸時代の「五人組仕置帳」の内容を踏襲し連帯責任による法秩序や道 徳面から生活上の決まりを教育するものにとどまっていた。これに対し堺県から出版された市郡制法は、 学校の建設、教育の必要性、知識を世界に求める意欲、貿易の振興等その内容はきわめて積極的であ った。 |
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![]() 展示物説明(松本先生) |
![]() 郷学校で使用された教科書 |
![]() 郷学校で使用された教科書 |
![]() 明治期に使用された理科教科書 |
![]() 展示物説明(松本先生) |
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![]() |
![]() 郷学校で使用された教科書 |
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